幻のやきもの『林田焼』と幕末勤皇の詩人『河野鐵兜展』(終了しました)

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江戸時代前期の幻のやきもの『林田焼』と幕末の林田に深く関わり林田藩 藩校“敬業館”の教授として儒学はもとより国学・雅楽・薬草学・漢学に至るまでの博学であり、播磨一帯に多くの功績を残した『河野鐵兜』展を開催します。今年は河野鐵兜没150年にあたります。播磨地方の歴史の一面をどうぞご覧ください。

  • 会場 姫路市立書写の里美術工芸館 2階会議室
  • 会期 平成28年6月4日(土)~12日(日) (月曜休館)

林田焼

 林田焼は江戸時代前期に西播磨地方では一番古くから焼かれた焼き物で、京都で活躍した“野々村仁清”が林田に来訪し指導したとの伝説があります。証拠資料はありませんが、古清水焼の色絵や鉄絵の上品な雅陶品が残っていますので仁清と林田焼の関係は否定できないと述べている研究者もあります。

 林田藩3代藩主 建部政宇(たてべ まさのき 1642~1716)が地元産業奨励のため姫路市林田町八幡宇河内東山麓と上構鴨池の西北丘陵地の2ヶ所に窯を築き製陶したと伝えられています。長皿・扇面皿・香炉・茶碗・向付などに赤字で陶印がある半陶半磁の色鮮やかで高雅な作品であります。胎土や秞調が京焼と似かよっているので見分けが難しいところがありますが、貫入を意識して誇張したつくりはよく見ると区別ができます。資料・文献が非常に乏しく藩窯として焼成された期間がわずか数十年であること色絵の鮮やかなこと、仁清の来訪などの要素が加わって林田仁清焼まさに幻の陶器といわれています。

河野鐵兜

 郷土の偉人である河野鐵兜先生は文政8年(1825)に網干の余子浜に医を業とする家に生まれました。5歳の時から父について漢籍を学び、15歳の時に一夜にして漢詩を100編つくりあげ、神童と呼ばれるなど、儒学・国学・漢詩・和歌などに秀で特に「芳野」の詩は、梁川星厳・藤井竹外とともに芳野三絶と言われ全国的にも知られています。

 嘉永4年(1851)27歳の時に林田藩主 建部政和により、林田に居を移しました。そして、43歳で没するまで全国から多くの志士・文人・学者が河野鐵兜のもとに訪れ、この林田に足跡を残しました。林田の自然を詠んだ詩も多く残され地域の誇りとして、今もなお、人々の心に生き続けています。河野鐵兜を葬った道林寺は建部候の菩提寺であり、河野鐵兜は道林寺あたりの四季折々の情景を好み、よく訪れていました。この墓は後に追分の峠の墓地に改葬されました。

林田藩と敬業館

 林田藩の成立は豊臣政権下で尼崎群代700石であった建部光重の子・政長が藩祖であります。建部氏は外様大名でありながら、明治維新まで10代 政世まで250年余り林田藩を治めました。江戸幕府の間、播磨地方において国替えがなく藩を治めたのは林田藩のみです。また3名の藩主が大番頭となっています。中でも、3代 政宇は第13代伏見奉行になり、後に寺社奉行にもなっています。

 7代 政賢は寛政6年(1794)に藩校 敬業館を開きました。9代政和は大番頭として京都、二条城守護に就き、藩校 敬業館振興のため、藩校の講師に河野鐵兜や石野廣裳を迎えました。藩校へは、士族の子弟は8歳になると入学し、16歳で卒業しました。また、学術品行に優れた者は藩費で遊学させるほか、庶民でも志願者は入学を許され、授業は一様に区別なく行われていたといわれています。この敬業館の講堂は文久3年(1863)に焼失ののち復興、今は県下に残る唯一の藩校の建物としています。林田藩は明治4年(1871)、廃藩置県により林田県となり、その後、飾磨県を経て兵庫県に編入されました。

大番頭 おおばんがしら

江戸幕府において江戸城大手門など江戸城を警備する「大番組(おおばんぐみ)」の頭(隊長)です。武官で最高の地位であり、5千石級の旗本や1万石級の譜代大名がその職に就きました。

 

【主催】

林田敬業の会

【後援】

姫路市教育委員会
林田地区連合自治会
伊勢地区連合自治会

 

姫路市立書写の里美術工芸館

〒671-2201 姫路市書写1223番地
TEL.079-267-0301
FAX.079-267-0304 

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