林田の城

その昔、林田にあった城からも歴史街道のまちである一端が分かる。今はもう、石垣の後であったり、五輪塔とみられる石であったりなど居城を示すものが僅かに残るのみとなっているが、赤松氏が応仁の乱を機に播磨に勢力を伸ばしていたことが良くわかる。

空木城(うとろぎじょう)

〔姫路市林田町上伊勢〕

空木城は林田町伊勢の東方の標高270mの山頂に位置し、直線的階段式多郭型の縄張りで、広さは東西100m・南北70mあったのではないかとされており、山頂部には二段の曲輪跡と石積みや東端に堀切等が残されている。南東に続く尾根は神座の窟を経て伊勢山に連なり、応仁年間(1394-1428)に築城されたとされている。

この城は、置塩城の支城として西方面の街道を抑える城であったと考えられ、赤松義雅の家臣 喜多野新左衛門忠助が居城していた。嘉吉元年(1441)には赤松氏の家臣 小野七郎右衛門が在城し、天正(1573-1592)の頃 赤松則房の家臣 原田大炊助が最後の城主だったが、羽柴秀吉の播磨侵攻・姫路城修築の命に従った赤松則房が置塩城廃城に伴い、同時期に空木城も支城としての運命を終えたとされている。

近年、空木城及び神座の窟周辺は「伊勢・岩屋ふれあいの森」として整備されている。


佐見山城(さみやまじょう)

〔姫路市林田町八幡〕

城跡は、林田川東岸の「城山」と呼ばれる標高189・5mの山頂にある。築城年代は不明。江戸時代は奥佐見村(おくさみむら)に含まれ、西麓には林田八幡(やはた)神社が鎮座(ちんざ)している。城山は均整のとれた円錐形(えんすいけい)をしており、背後の北側には葛城山(かつらぎさん)がある。

山頂部には約10mの円形状の削平地(さくへいち)が造られ、その西方向と南東方向に三段程度の小さな削平地と石積みが数箇所残る。自然地形を利用した小規模な砦状(とりでじょう)の城跡である。山頂からは、西麓の因幡(いなば)街道を見通すことができ、南麓の道は林田伊勢を経て赤松氏の本城置塩(おじお)城(現在の夢前町)に通じており、交通の要地であったと考えられる。

「赤松家播備作城記(ばんびさくじょうのき)」に「佐見山城 天正8年(1580)羽柴秀吉攻宍粟宇野時之付城(つけじろ)也」と記され、英賀(あが)城(飾磨(しかま)区)を包囲した秀吉は手兵の一部を宍粟郡(しそうぐん)の宇野氏攻めに差し向けている。秀吉軍が、宍粟郡と揖東郡の境目である安富町狭戸(せばと)で戦いがあった「長水軍記」と伝えており、松山城とこの佐見山城は宇野攻めの足がかりとなったようである。

山頂からの展望はすばらしく、眼下には林田の田園が広がり、因幡街道(国道29号線)沿いの町並みが一望できる。その先の山並みの隙間に播磨灘が顔をのぞかせている。


松山城(まつやまじょう)

〔姫路市林田町松山〕

松山城は林田川の左岸、標高140mの「かます山」(別名:妙見山、天神山)にある。築城年代は不明。

山頂へと向かう道に入ってすぐの所には北辰妙見社があり、その左端には倒れた五輪塔と見られる石が散らばっている。

山頂には長さ170m幅25mほどの細長い平坦地があり、西端に虎口跡とみられる窪みがある。その下3mには帯曲輪状の平坦地が取り巻いているが、山の斜面は急で所々角形の石材が散見される。

永正15年(1518)赤松義村と浦上村宗が対立した際、村宗の姪婿であった衣笠村氏は松山城に拠って義村と敵対した。義村は松山城を攻めるも落ちず、その後一千騎で攻め立て落城に追い込んだという。(『播磨鑑』)

また、「長水軍記」によると、天正8年(1580)4月、羽柴秀吉の軍勢が林田を通り宍粟郡の長水城に侵攻した。この時、松山城主は本郷宗祐(長水城主宇野政頼の四男)で、秀吉軍と最後まで戦い宇野氏と運命を共にしたといわれている。

林田川の右岸には因幡街道が走り、近世には姫路から林田陣屋町、安志陣屋町を経て宍粟郡山崎城下へ通じていた。松山城は因幡街道に向かって東から張り出す格好になっており、ここを通過する軍勢に対する抑えとして機能していたものと思われる。


林田藩 陣屋

元和3年(1617)、建部政長が林田藩1万石の藩主として入封し、それまで英賀城落城後に移り住んできた三木氏の邸宅があったが、これらを麓に移し、聖岡と改め林田藩陣屋を構え、灌漑用に鴨池をつくるなど農業に尽力し、以後「廃藩置県」まで10代250年余り建部氏が治めた。播磨地方では唯一藩替えもなく最後まで納めたのは林田藩のみである。

もともと聖岡は、塩阜(しおおか)とも呼ばれた小さな丘で、室町後期、谷沢国氏がこの丘に築城し窪山城と称したのが始まりであるが、永正13年(1516)守護・赤松政村に背き落城している。また、近隣一帯の林田荘は古来より京都の賀茂神社の神領(荘園)であったとされ、やはり永正の頃の代官として赤松資吉の名が見える。

現在は、城郭跡は梅林となっており、一段低い敷地には建部神社が残る。また周りには石垣が残っているが、周りに巡らされいた堀に沿って武家屋敷が建っていたことが分かる貴重な資料の一つとして昭和61年『姫路市史』に宝暦5年(1755)林田地図の模写図が掲載されている。