天正5年(1577)5月、英賀城主 三木通秋と旧誼の間柄であった中国地方の盟主毛利氏が5,000の水軍で英賀に上陸。絆が深まることを恐れた官兵衛は農民による擬兵作戦を思いつき、わずか500の手勢でこれを撃退したのです。世に言う英賀合戦です。
その頃、通秋は毛利氏と結ぶ大坂本願寺に兵糧を送り支援を続けていました。信長が大坂本願寺を開城(降伏して城や要塞を明け渡すこと)させた天正8年(1580)の4月、秀吉は英賀城を攻略。落ち延びた三木一族は各地に離散しました。通秋の弟定通は宍粟郡門前村に逃れ、その後林田へ帰農し、もう一人の弟通基も弟定通の縁により林田に移り住み、定通は構三木家の祖、通基は六九谷三木家の祖となります。
定通は窪山城跡(聖ヶ岡)に居を構えましたが、元和3年(1617)建部政長の林田移封に際し、聖ヶ岡を差し出し屋敷は麓に移りました。この時、定通は藩主政長より大庄屋に任命され、江戸時代を通じて大庄屋を務めました。
このように林田と官兵衛は浅からぬ因縁があるのです。
【英賀城跡公園にある天守台を模した石垣】
天正6年(1578)8月、峰相山鶏足寺の衆徒が蜂起(大勢が一時に暴動・反乱を起こすこと)したので、秀吉は官兵衛に鶏足寺の焼き討ちを命じました。官兵衛は、信長の延暦寺焼き討ちが頭を過りましたが、主君の命には抗えません。太市郷民に鶏足寺に対する一揆を起こさせ、その混乱に乗じて鶏足寺を攻め、坊舎を焼き討ちにしました。
毎年8月15日に太市の破磐神社では焼き討ちによる犠牲者を弔う火祭り(奉点燈祭)が行われています。当時の為政者の目を恐れ、田の虫を追い払う農事関連の行事にカモフラージュして継続されてきたと言い伝えられています。
【峰相山 鶏足寺跡】
【峰相山 鶏足寺 想像復原図】
天正8年(1580)4月、播磨攻めの終わりの頃には、秀吉軍は因幡街道を北進し、毛利氏と誼を通じていた宇野氏の長水城・篠ノ丸城とその配下である林田の松山城を攻略しました。
『長水軍記』には、「先勢一千騎荒木平太夫大将ニテ林田ヨリ向フ、次ノ一軍三千騎小寺官兵衛孝髙大将ニテ觜崎ヨリ向フ、次ノ一千騎神子田半左衛門大将ニテ同林田通ヨリ向フ、後陣ニハ秀吉自ラ木村、竹中、石見、樋口其他大勢ニテ林田通ヨリ向ヒ給フ」とあり、秀吉軍が大挙して林田を通り進攻したとされています。(官兵衛は觜崎から林田へ入り、松山城を攻略して新宮の香山城を攻めた説もあります。)
林田を通る因幡街道は、古文書では「この道を南に向かって姫路街道と言い、北に向かっては宍粟街道と言う」とあり、因幡街道と明記した江戸時代の文献は見当たりません。
『安志誌』によると、狭戸村より起こり安志峠を越え河東に通ずる一条の国道を「因幡街道」と称するとあります。種々の文献・記述から鳥取に通じる道だから「因幡街道」に違いありませんが、「脇街道(裏街道)」現代風に言えばバイパスとしての役割を担っていたといえます。
【松山城祉】
天正8年(1580)9月、播磨攻め等の論功行賞により、官兵衛は秀吉から揖東郡内の福井庄の一部6,200石・石見庄2,700石・伊勢1,100石の合計10,000石の領地が与えられ大名となりました。これをきっかけに“軍師
官兵衛”の目覚ましい活躍が始まるのです。
秀吉の播磨攻め当時は、現在の林田町の上伊勢と下伊勢が伊勢でした。徳川時代の一時期において上伊勢の北部は龍野藩預かりの天領(幕府直轄地)でした。