郷土の偉人である『河野鐵兜』は、文政8年(1825)に姫路市網干余子浜の医を生業とする家に生まれ、5歳の時から父について漢籍を学び、15歳のとき一夜にして漢詩を100編つくりあげ、神童とよばれるなど、儒学、国学、漢詩、和歌、薬学などに秀で、特に「芳野」の詩は、全国的にも知られています。
今回は個人所有の河野鐵兜の遺墨のみならず、龍野歴史文化資料館所蔵の公式調査記録『河野絢夫先生尺牘集』他、個人所蔵の『鐵兜及其交友の尺牘』などを展示します。激動の幕末にありながら、歴史に名を連ねる人たちとの交流を読み解くことができるといっても過言ではないでしょう。当時の天皇も河野鐵兜の名を知っていたとも言われています。
また、姫路市教育委員会文化財課が所蔵する住民から寄付された物品を整理していた時に、『政宇公御手焼龍絵甲(かぶと)皿』と書かれた箱書きが発見され、その箱の中には薄手の陶器皿10枚が入っていました。政宇(1647-1715)は林田藩第3代藩主、伏見奉行・寺社奉行をつとめ伏見の大火では再建に手を尽くしました。
今回は、その『政宇公御手焼龍絵甲(かぶと)皿』のお里帰りを敢行しました。
端午の節句展も同時開催しました。
もう一度写真でご覧下さい。