『河野鐵兜 公式調査記録発見!』
『鐵兜逸話の遺墨とまぼろしの林田焼里帰り』
郷土の偉人である『河野鐵兜』は、文政8年(1825)に姫路市網干余子浜の医を生業とする家に生まれました。
5歳の時から父について漢籍を学び、15歳のとき一夜にして漢詩を100編つくりあげ、神童とよばれるなど、儒学、国学、漢詩、和歌、薬学などに秀で、特に「芳野」の詩は、全国的にも知られています。
しばしば姫路の本屋に立ち寄り、立ち読みしては内容を覚えてしまって本を買わないので、店主は鐵兜先生の顔を見ると新刊書を隠したという逸話も残っています。
嘉永4年(1851)、27歳のときに、林田藩八代藩主 建部政和により、林田藩 藩校「敬業館」の教授として迎えられ、安政元年(1854)からは林田に居を移しました。そして43歳で没しました。
林田の自然を詠んだ詩も多く残され、ことに河野鐵兜先生を葬った道林寺あたりの四季折々の情景を好み、よく訪れていました。この墓は後に追分の峠の墓地に改葬されました。
今回は個人所有の河野鐵兜の遺墨のみならず、龍野歴史文化資料館所蔵の公式調査記録『河野絢夫先生尺牘集』他、個人所蔵の『鐵兜及其交友の尺牘』などを展示します。激動の幕末にありながら、歴史に名を連ねる人たちとの交流を読み解くことができるといっても過言ではないでしょう。
林田焼